平沼赳夫
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平沼邸炎上す

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 ことしもまた八月十五日が間もなくめぐって来る。昭和十年以前に生れた人間ならば、昭和二十年八月十五日という日は何らかの形で、強く印象に残っている日であるに違いない。即ち、昭和十年生れの人はその時すでに満十歳になっていたのであるから、事の重大さが、おぼろ気ながら理解出来たはずだからである。

 これが、昭和十一年、十二年、十三年生まれとなるに従って、その記憶は、段階的に薄れ、人によっては、ぜんぜん、憶えていない人もあるであろう。

 かつて、テレビの八月十五日の特集の中で、アナウンサーが湘南の海岸で若い人々を捉えて、「あなたは八月十五日が何の日だかご存知ですか」という質問をしていたが、大部分の若者が一瞬怪訝な顔をして、即答することが出来ず、ひどいのに至っては、真剣にあれこれと考えをめぐらした後「うーん、あっそうだ、花火大会だっ」と言ったのには、まったく驚いた。放送局もわざとそんな声しか電波にのせなかったのだろうけれど、それにしても戦後育った若人の中に、相当数そういう類の者がいるということは何か考えさせられるものがある。

 私自身の八月十五日はどうだったかと振り返ると、私は昭和十四年生まれなので当時満六歳、本来ならば、同年代の人と同様に、この日をほとんど記憶にとどめていないはずであるが私の場合、祖父が終戦後、枢密院議長をしており、終戦の御前会議でポツダム宣言を受諾する側、すなわち、事がここまで来てしまった以上、国体を護持する上から有条件降伏(ポ宣言は有条件である、無条件降伏ではない)もやむを得ぬと、主張したために、八月十五日は終生、忘れることの出来ぬ強烈な印象の日となっている。

 ここで祖父と普段、呼び慣れている呼称で書いた騏一郎は終生、独身であった。私の母は、騏一郎の実兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎の孫に当たり、小さい頃より騏一郎に可愛がられて、実の子の如く育てられた。その関係で私が現在騏一郎の跡を継いでいる。

 昭和二十年八月十五日に関する私の記憶は、当時、新宿の西大久保にあった家の二階の寝床の中より始まっている。私の父は、二等水兵として、横須賀海兵団に行っており、家には、祖父騏一郎、母方の祖父母の飯田夫妻、それに私たち親子が住んでいた。

 その日私たち親子は母を中心に、姉と私とで、川の字になって寝ていた。その朝早く、五時半頃であったか、艦載機による空襲があり、警戒警報が鳴った。警戒警報であるし、艦載機によるものなので、母は私たちに、階下に様子を見に行くから、そのまま、寝ていなさいといって、寝床を抜け出そうとしたところ、暑中の早朝の心地よい眠りを貪っていたはずの、小さな姉と私が、どうした風の吹き回しか、一緒に行くと起き出した。この一緒に起きたことが、私どもに、非常に幸いしたのである。私の記憶では、広い階段を、私と姉とが競争で母に甘えてまつわりつき、うるさいので母に小言を言われながら降りたのを憶えている。階段の下へつくかつかぬうちに電話がけたたましく鳴り取継ぎの者があわてて母に受話器を渡した。

 母は二言、三言話すと血相変えて電話室から飛び出して来た。この時の母のただならぬ顔つきから子供心にも何か大変な電話であったことが察知出来た。この電話は鈴木貫太郎首相の所からの急報で、たった今暴徒が首相私邸を襲撃し、これに火を放ち、そちらに向かったようなのでくれぐれもご用心下さいと、わざわざ知らせて来てくれたものであった。母が血相変えて電話室から飛び出て来たのも無理はない。

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