平沼赳夫
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一冊の本
「生命の實相」はいつも車の中に。
朝日新聞社「政治の本棚38」より
聞き手:早野 透( 朝日新聞編集委員 )


−平沼さんと言えば、平沼騏一郎を思い浮かべます。法曹界の大立者で、日本が戦争に差しかかるころの総理大臣でもありました。
平沼−騏一郎には子供がなかった。私は生まれてほどなく養子に入りました。騏一郎の兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎、私の母親はこの人の孫になるんですよね。騏一郎の家にはに女手がなかったから、私の母をそばに置き、実の孫のようにしてかわいがったんです。そしてお前の産んだ子を養子にすると。

−平沼さんご自身は、終戦のとき六歳ですね。
平沼−八月十五日の朝早く、電話がけたたましく鳴って僕の母が出たら、鈴木貫太郎さんの家から「兵隊に襲われた。そっちにも行ったらしい」という知らせでした。そこへ玄関の車寄せの砂利にトラック二台、機関銃三丁積んで乗りつけたのです。ギュッ、ザザザザザーッという音を覚えていますね。

−それは枢密院議長平沼騏一郎がポツダム宣言受諾に賛成してけしからんということですか。
平沼−かねがね騏一郎は、東條が逮捕せいと言うぐらい、開戦のときも反対だったんです。戦争をしないように画策をして、それが軍に漏れて、ピストルで撃たれたこともある。平沼は裁判官出身だから、御前会議は陸軍、海軍の備えはどうなっているかとわあわあやった。軍は答えられない、竹やりでやろうとしているわけですから。それで君側の奸、鈴木と平沼は殺せとなったんですね。このとき平沼邸は炎上してしまうのです。

−その後の騏一郎のご記憶は。
平沼−騏一郎は、最高齢のA級戦犯だった。私が小学校五年生のときまで生きておりました。巣鴨へ面会に行ったことがありますね。

−判決は終身禁固だった。
平沼−サンフランシスコ平和条約の後、みんな釈放になりましたけれども、その一年前に獄中で死んだんです、老衰で。騏一郎を形容する言葉は、「秋霜烈日」、非常に厳しい人だったようですが、僕らにはやさしいおじさんでしたね。
 騏一郎の死後、私の父親が大協石油という会社に勤めていましたから、典型的な中産階級的な生活ですね。

−そのころ、読んだのは。
平沼−下村湖人の「次郎物語」ですね。家が没落していく過程が書かれてあって。小学校五年ぐらいのときに、熟読した記憶があるんです。

−あれは心にしみました。その後、麻布中、高校と進みましたね。
平沼−「小学校のときは、結構勉強はできてね。吉永小百合の姉さんとトップを争うようだったのに、麻布に入ったら、できるやつがたくさんいる。そこで発奮すれいいんですけれども、運動部に入っちゃった。フットボールに明けフットボールに暮れた。麻布では、平均八十五点以上が優等生なんです。同級生の与謝野馨は優等生でしたね。私なんかは、落ちこぼれだったんですよ。

−しかし、わりと伸び伸び育っていますね。
平沼−高校卒業式のときに「優等生起立」って号令がかかるんですよね。そうすると、八十五点以上は父母の前で起立して、代表が優等証書をもらうんです。私も起立したわけですよ。担任が「おまえは違う」と言っても知らんぷりして立ってた。有名な話でね。(笑)

−中学、高校の読書は。
平沼−姉がすごい読書家だったんでね。ディケンズの「ディビットカパフィールド」とか、クローニンの一連のもの、ドフトエフスキーなんか、姉が読んでたのを自動的に読んだという感がありました。

−政治を志しての勉強は。
平沼−具体的な行動はしなかったんです。ただ、賀屋興宣という、やはりA級戦犯だった方と、近所に住んでたことがあるんですよ。同じ境遇で、家族付き合いをしていたんですね。その賀屋先生の選挙を手伝ったりはしました。私は慶應大学に入って、賀屋さんの孫の家庭教師をしました。毎週二回行って勉強を教えてたんですね。
 大学四年になったときに、賀屋先生に「私は政治家を志しているから、ひとつ秘書にしてください」と言ってお願いしたんですね。そうしたら賀屋先生は「駄目だ。急にこの世界に入っちゃいけない」って。「武者修行をしなさい」と言われました。このまま入っちゃうと政治屋になっちゃうぞというような意味だったと思うんですね。

−で、どうしました。
平沼−しようがないから片倉三平という日東紡績の創立者、平沼騏一郎と盟友だった人に「雇ってくれ」と頼みました。「何年働くんだ」というから「五年です」と言ったんですね。そうしたら「それが一番迷惑なんだ。だけどまあ、わかった」と。よき時代だったんですね。でも、ブリヂストンタイヤとの共同研究ができるまで結局、私は十一年いました。そこに賀屋さんが連絡してくれて、佐藤栄作さんのところで秘書が必要だと。

−この時期の本はどんな。
平沼−政治家を志していながらサラリーマンをしていて、谷口雅春の「生命の實相」に触れたときに、私は感動を覚えたんです。当時、大協石油の四日市の精油所長をしていたおやじのところに正月に行ったとき、父の部下で「生長の家」の熱烈な活動家だった人が「生命の實相」を持ってきていたわけですね。堅そうな本だなと思って読んだら・・・・・。それは五十巻あるんですけれどもね。

−長いですよね。
平沼−一巻は四日市で読んで、あと自分で東京・原宿の「生長の家」の本部へ行って買って。法華経の意味とか、キリストはどういうものか、非常に平易に書いてあるんですね。完全な唯心論なんですね、目からうろこが落ちるような感じがして、パーッと霧が晴れるようにわかってきて、それで座右に置いて。

−谷口雅春は、もともと大本教からですね。強大な教団「生長の家」を築いた波乱の宗教家でしたね。
平沼−彼は、宗教というのは登山と同じだというんです。富士山に登るのに、須走口からも吉田口からも頂上は一緒だ。だからキリスト教から入っても、仏教、マホメット教から入っても、真理は一つしかない。谷口雅春の宗教は、どっちかというと融通無碍なんですね。そこにはキリスト教の教義も、もちろん法華経の心も、あるいは儒教の精神も入っているんですね。宗教は一つ。そこに非常に共鳴したわけです。

−それが實相の意味?
平沼−キリストの説いてることも、お釈迦さまが説いてることも、日蓮の説いていることも、すべて實相においては一緒なんだと。それで、實相哲学と言ってるんです。

−佐藤栄作さんのもとでは何を。
平沼−「息子が実は参議院の全国区に出ることになった」と。

−佐藤信二さんね。
平沼−それで「君も政治家を志しているんだったら、選挙から体験するのが一番いい。ひとつ信二を手伝ってくれ」って、私は昭和四十八年五月にサラリーマンをやめたのかな。それから選挙まで一年一ヶ月、信二さんと北海道から沖縄まで歩いたんです。信二さんが当選して、栄作先生に「実は小さいときから僕は墳墓の地岡山で選挙にでようと思ってたから、よろしくお願いします」と言ったら、「わかった、君は若いからどんどん回っていなさい、時期が来たら考えてあげよう」というんで、大船に乗った気持ちで岡山に戻りましてね。コツコツ自分で車を運転しながら回っていた。そうしたら、半年たったら死んじゃったんですよ、栄作さんが。

−僕も病院に取材に行きましたよ、思い出すなあ。
平沼−自民党も冷たいですからね。入党も認めない、初回の五十一年総選挙は全く無所属。九人出て九番目で落ちて、供託金没収ですからね。
 浪々の身になって、電話代が払えなくなっちゃって、とめられたりしましてね。そこで佐藤信二さんの選挙の総参謀だった飯島清さんが連絡をくれてね。「中川一郎を知っているか。おまえにぴったりだぞ」と。「俺が連れていってやるから」と言われ、議員会館の720号室に行きました。そうしたら、中川さんが気に入ってくれてね、自主憲法の制定を掲げた僕のパンフレットを見て。「応援してやろう」と、月々二十万ずつ送ってくれたんです。これがもう待ち遠しくてね、三日ぐらい前から。

−そういう思考傾向は、いつごろから確立されてきたわけですか。
平沼−もともと私の両親は、騏一郎の家で生活していましたから、どっちかというと保守の家ですよね。
 慶応に入ったとき、六十年安保なんです。安保反対派がまだ少数勢力で、遠慮がちにやってましたよ。僕らが行って、「おまえら何をばかなことをやっているんだ」と。自分も勉強してないのに、「学生は勉強しろ」とか言ってね。

−右っぽい団体に所属して、何かやってたとかは・・・・・。
平沼−東京弁護士会の会長の菅原裕先生とか、終戦の時の文部大臣で、後に亜細亜大学の学長になる太田耕造先生だとかが、憲法復原の研究会をつくったんですね、それを復憲研究会というんです。そこに騏一郎の孫だと言うんで呼ばれて、自分の考え方を語った。日本国憲法に反対するすごい人たちの前で。

−それは学生時代ですか。
平沼−学生の後半からサラリーマン時代を通じて。国際法では、戦いに勝った相手でも憲法を押しつけちゃならんということですね。だから、アメリカもそこを糊塗するために、実際は押しつけているんですけれども、帝国憲法の改正条項にのっとって、新憲法を誕生させたいという成立過程があるわけです。
 占領軍の強権下での憲法改正は一回無効宣言をすべきだ、瞬間的でも帝国憲法に復原して、そして現状に合った憲法を日本民族みずからの手でつくるのが筋じゃないか。私はそう思うんです。

−そういう意味ですか、自主憲法の自主というのは。
平沼−私の思想になったのは、やっぱり谷口雅春先生を読んでです。谷口さんも憲法論をたくさん書いていますしね。

−中川一郎さんは自民党総裁選に出たあと、自殺しましたね。
平沼−忘れもしない、昭和五十八年の一月九日ですね、中川さんが亡くなったのは。まだ僕は一年生代議士、暮れの三十一日に、国会近くのホテルの中華料理屋で阿倍晋太郎さんと中川一郎さんが昼飯を食うというので、私はそこまで行って「これから国に帰ります。また来年もよろしく」と言ってお二人に握手して帰ったんです。
 あのころの「生長の家」は政治にものすごくコミットしていて、岡山では正月に必ず、男ばかり三千人集まって大会をやるんですよ。その前の年は、大会に中川先生に来てもらった。その年は石原慎太郎さんに来てもらうことにしていた。そうしたら、その朝六時くらいに、石原さんから電話がかかってきて、大変だ、中川さんが北海道で倒れた、俺行っていいか、と言うんですね。でも岡山では三千人が石原さんを待っています。

−まさに当日なんですね。
平沼−私は、「とりあえず調べてみます。もしまだお亡くなりになっていないんだったら、新幹線に乗っていただきます」と言って、僕、すぐ中川邸へ電話を入れたんですよ。ぱっとつながって、出てきた秘書が泣いているから、これはおそらく駄目だなと思った。そうしたらすぐに石原さんから電話があって、「北海道にすぐ行くから、君が代わりをやってくれ」と。私も茫然としちゃってね、しかししょうがない、それで、大会の冒頭、「実は石原慎太郎先生は来られなくなった。ここで初めて明かします。中川一郎先生が亡くなったんです」と言ったら、わあーっと。前の年にいい演説をしてくれましたからね。

−寂しかったでしょう。
平沼−中川派は、もともと当時の福田派の人たちが多かったんですよ。中川さんが死んじゃったからみんな帰っちゃったわけですよ。それで僕ら六人で自由革新同友会、石原慎太郎さんを中心に肩寄せ合って一年半もやったわけです。石原さんはよくしてくれました。しかし六人じゃ何もできない、我々も福田派に参入しました。

−昭和六十一年に国家基本問題同志会をつくって、今度は亀井静香さんとのご縁ができるわけですね。教科書問題とか靖国参拝問題でもの申して、なんだかえらく元気な右の集団ができたなと、こういうことでした。
平沼−これは亀井、平沼コンビでつくったんですね。亀ちゃんが四回生で、僕が三回生で。亀井さんを紹介してくれたのは中川さんです。年は向こうが三歳年上で、私は当選回数が一回少ないから、亀井さんが兄貴分だ。

−気が合います?
平沼−永田町の人たちに言わせると、お神酒徳利なんですね。二人そろって一対だと。中川さんと彼の同じところは、豪放磊落に見えるけれども、実は繊細なところですよ。情が深いしね。僕なんか、よっぽどずぼらなんですね。

−そういわれると、そういう感じもしないでもない。
平沼−中川さんと亀井さん、IQはものすごく高い。それから行動力がありますね。思ったらわあっと。

−でも、政局の節目にコトを起こして、それなりの成果を上げる割に、いつも非主流に甘んじてますね。
平沼−鉄砲を撃って確かに鹿を射止めたなと思うのだが、何だかほかの人がその肉を食べて酒盛りをやっている、そんな感じですね。

−おもしろい例えだな。政治家としての座右の本は。
平沼−やっぱり「生命の實相」です。岡山の車にも、革表紙のを積んでいて、どこかの大会に行くときに見ると、いい演説のヒントがあるんです。この間の岡山市長選に通産省の役人を担ぎ出して当選したんだけれど、選挙に臨むにあたって「これを読め」と。

−「生命の實相」をですか?
平沼−ええ。まあ、読んだかどうかわからないけれども。


 対談後記
平沼赳雄夫氏に触発されて、「生命の實相」をひもといてみると、確かに人生知に満ちた本である。自民党の右の正統派の風格に、合わせて幅のある人柄を感じさせるゆえんであろう。
 氏は故福田赳夫氏と同名、詩経の「赳赳武夫公侯干城」に由来している。飄々として気骨のある武の精神、往年の福田氏と一脈相通ずるところがある。

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